歌舞伎の町・小鹿野で始まる地方創生。世界を舞台に活躍したパフォーマーが描く“サーカス歌舞伎”と未来

埼玉県西部、秩父の山あいに位置する小鹿野町。この町で2024年に新たに生まれた表現があります。サーカスと歌舞伎を融合させた舞台「サーカス歌舞伎」。手がけたのは、世界を舞台に活躍してきたパフォーマー・村岡友憲さんです。シルク・ドゥ・ソレイユ(世界各地で公演を行うパフォーマンス集団。サーカス芸と舞台芸術を融合させたショーが特徴)からのオファーを受けた経験を持つ彼が、自らの原点でもある小鹿野町に戻り、町民とともにゼロから舞台をつくり上げていく——。なぜ、小鹿野町なのか。そして、今後のビジョンは——。本記事では、村岡さんのこれまでの軌跡と、地域とアートが出会うことで生まれた挑戦、そして小鹿野町から描かれる未来についてお届けします。

小鹿野町と歌舞伎

人口はおよそ1万人。鉄道が通っていないこの小さな町には、今もなお息づいている伝統があります。それが「地芝居」と呼ばれる、町民による歌舞伎の文化です。

小鹿野の歌舞伎は、江戸時代から受け継がれてきたもの。町の人たちが舞台をつくり、衣装を縫い、台詞を覚え、楽器を奏でる。プロではなく、あくまで地域の住民たちが力を合わせてつくる舞台。その中には、町への誇りと芸への敬意がぎゅっと詰まっています。

毎年行われる地芝居の公演には、町内外から多くの観客が訪れます。舞台に立つのは、地元の町民と、子どもたち。誰もが主役になれるこの文化は、単なる娯楽にとどまらず、世代を越えて地域をつなぐ「表現の土壌」となっているのです。

現代において、町ぐるみで歌舞伎を守り、演じ続けている地域は極めて稀です。小鹿野には、それが当たり前に存在している。地芝居は、この町の大切な宝であり、文化の礎であり、未来へとつなぐ「町の魂」とも言える存在です。

小鹿野町と村岡友憲さん

そんな小鹿野町に、世界を舞台に活躍してきた一人の表現者がいます。その名は、村岡友憲さん。シルク・ドゥ・ソレイユからもオファーを受け、世界最大級の豪華客船ではウォーターショーの主役を務めた、まさに本物のパフォーマーです。

村岡友憲さん

小学生の頃、金曜ロードショーで見たジャッキー・チェンの姿に憧れ「自分もこんなふうになりたい」と思ったのが、すべての始まりでした。小鹿野高校を卒業後、スタントマンを目指し、ジャパンアクションエンタープライズ(JAE)の門を叩きました。寝る間を惜しみ、稽古・バイト・仕事をがむしゃらに繰り返す日々を送りました。人目も憚らずに、公園でバク転を100回練習したこともあったと言います。

しかし厳しい下積みのなかで疲労骨折とヘルニアを発症。「このままでは夢を叶えられない」と退所を決意します。迷いの中、舞浜で再び観たシルク・ドゥ・ソレイユの舞台に胸を打たれ「自分もシルクの舞台に立つ」という夢をもう一度心に刻みます。

シルク・ドゥ・ソレイユは、世界中の表現者がしのぎを削る、表現の極地。村岡さんが目指したのは世界でも採用枠がわずかなマーシャルアーツ(武術・格闘技系の演目)部門でした。英語もままならない中、2度の書類落選にめげず、自費で渡米してラスベガスのオーディションに挑みますが、それでも不採用。

しかし2019年末、怪我人の代役としてシルク・ドゥ・ソレイユ出演のオファーが届きます。11年追い続けた夢が叶った瞬間でした。

ところが、夢を掴んだと思ったのも束の間。直後にコロナが世界を襲い、ショーは中止。せっかくのオファーも撤回。再び生きる目標を失ってしまいます。

落ち込む暇もなく、村岡さんは仲間たちとオンラインでサーカスを届ける活動を開始。病院の子どもたちや外出できない人々へパフォーマンスを配信するため、給付金を投入してカメラやPCを揃え、映像制作と配信を独学で習得します。

その根底にあるのは、「芸術を通じて、誰かの心に光を届けたい」という変わらぬ想いです。

その後、家族の事情で東京から小鹿野に通う暮らしを開始。そこで再び出会った小鹿野の豊かな自然。山の空気や、川と風の音に包まれるうち「そのままで生きている自然の美しさ」に勇気をもらったと言います。そして気づいたのです。「自分の人生で得てきたものを、この町に還元したい」と。どんな時も、自分のスタイルで、誠実に。一流にこだわりながらも、周りを思いやる心を忘れない。そんな村岡友憲さんの生き方は、小鹿野の町に、そして日本の表現文化に、少しずつ新たな風を吹き込んでいます。

(小鹿野町内の夏祭りでパフォーマンスをする村岡さん)

小鹿野町で「サーカス歌舞伎」が生まれるまで

サーカスと歌舞伎を融合させた舞台「サーカス歌舞伎」が、小鹿野で幕を上げたのは、2024年の冬のことでした。「サーカスと歌舞伎を掛け合わせた舞台を小鹿野町で実現できたら、とんでもないことが起きる」そう確信した村岡さんの想いから始まった挑戦は「小鹿野アートプロジェクト」として動き始めました。舞台が実現するまでの挑戦は、「まるでロールプレイングゲームをしているようだった」と、本人は語ります。

きっかけは2015年。村岡さんが出演した「スーパー歌舞伎Ⅱ ワンピース」でした。それまでは「年配の人向け」と思っていた歌舞伎の舞台。しかし、見得(みえ)を切った瞬間に観客の息が揃う、その空気の張り詰めた緊張感に、「これが日本の芸能の力か」と衝撃を受けたといいます。一流の舞台に身を置いたことで、それまでの価値観が大きく塗り替えられた瞬間でもありました。以来、新作歌舞伎ナルトや歌舞伎座の舞台などにも出演し、表現者としての幅を広げていった村岡さん。

やがて彼は、小鹿野町に拠点を移します。そこで気づいたのは、かつて興味すらなかった歌舞伎が、この町では暮らしの中に息づいているということ。

春祭りで町民が演じた『白浪五人男』。演者も裏方も、みんな地元の人たち。プロではないけれど、そこには本気の情熱と町の誇りがありました。

春祭りで地元の人たちが演じた「白浪五人男」の舞台

ヒーローショーでの「名乗り」は白浪五人男がルーツだと言います。その構造に、村岡さんは深い感銘を受けました。「実は、自分たちの身の回りに、すでに歌舞伎のエッセンスは息づいているのでは?」

その気づきが、「サーカス歌舞伎」というまったく新しい舞台を生み出す原動力になったのです。

サーカスの自由で大胆な身体表現。
歌舞伎の根底にある「傾(かぶ)く」精神——常識を疑い、あえてはみ出す者の美学。
そして小鹿野の地に根ざした「自分たちで舞台をつくる文化」。

これを融合させたら、すごいことが起きる。たくさんの人を巻き込んで、新しい価値を共創する。それは誰もやったことがないチャレンジであり、無限の可能性を秘めている。だからこそ、自分らしさ全開で、挑戦してみたい——。

こうして始まったのが「小鹿野アートプロジェクト」だったのです。「サーカス歌舞伎」を実現するためには、町民・町外の人・プロのパフォーマー・行政などあらゆる人が一体となる必要がありました。1人では実現できない、前代未聞の舞台。それを、村岡さんはゼロから、手探りで作り始めたのです。

最初は誰も助けてくれませんでした。「この人、本当にやるのか?」という目で見られることもありました。でも、村岡さんは一人で準備を始めました。黙々と遅くまで作業を続けるうちに、少しずつ周囲の目が変わってきました。「まだやってるの?」「手伝おうか?」そんな声が、いつの間にか増えていったのです。クラウドファンディングでは1,285,000円を集めました。

サーカス歌舞伎 準備中の様子

そして迎えた本番。満員の客席。こうしてできた舞台は、単なるサーカスでも、単なる歌舞伎でもない、「ここにしかない表現」として、観客の心を打ちました。「あんな舞台、見たことない」「まさか小鹿野で、こんなものが見られるなんて」——そんな声があちこちから届きました。村岡さんにとって、この舞台の成功は、表現者としての喜びだけではありません。

「ありがとう」「やってよかった」
関わった人のそんな言葉や、輝く表情が、村岡さんにとって何よりの報酬でした。小さな町で起きた大きな挑戦は、確かに「お金では計れない価値」を生み出していたのです。

(サーカス歌舞伎 本番のステージにて)

そして、今後のビジョン

村岡さんは今、さらに大きな構想を描いています。「小鹿野アートプロジェクト」がコンセプトに掲げるのは、「文化芸術を通した新たな価値共創」。町民も、アーティストも、町外の人も、子どもも大人も、お年寄りも——誰もが関われる「共創の場」を、小鹿野町に根付かせたい。それによって関わる人、それぞれに光を当てたいと考えています。

その拠点として考えているのが、廃校となった体育館です。ここをサーカス専用の練習場、そして体操教室や舞台芸術の稽古ができる施設として再生し、「日本一のパフォーマンス拠点」にし、新たな表現や出会いの生まれる場に育てたいと考えています。

小鹿野町は、ただの「田舎町」ではありません。歌舞伎の語源である「かぶく」とは、常識に縛られず、自分らしく生きる姿勢のこと。この言葉のとおり、小鹿野には「型破り」な魅力を楽しむ土壌があります。舞台に立ったことがある人、楽器を奏でたことがある人、衣装を縫ったことがある人……。そのひとつひとつの経験が、町の底力として息づいています。表現に携わる素地を、すでに多くの町民が持っている。だからこそ、芸術はここで育ち、根を張ることができるのです。

そして小鹿野町の魅力は、両神山に抱かれた豊かで圧倒的な自然環境。川のせせらぎ、木々を揺らす風、満天の星空。ただこの町で深呼吸するたび、身体の奥から力が戻ってくるような感覚がある。表現者が「自分を取り戻せる場所」として、小鹿野は特別な力を持っている——村岡さんは、そう感じています。

芸術が集まる場所には、人が集まり、価値が生まれる。だからこそ、まずはパフォーマーが安心して創作に集中できる環境を整えたい。そして町民も一緒に関わることで、新しい仕事や交流、学びが生まれる。そんな「芸術と町が一体となる地方創生プロジェクト」を、小鹿野から全国に広げていく——それに関わるすべての人が、笑顔になるように。

上演後に観客と話す村岡さん

「他にも構想は、まだまだたくさんある」と村岡さんは語ります。小鹿野町での彼のチャレンジは、まだまだ始まったばかりです。

編集後記 松田より

取材にあたり、初めて村岡さんにお話を聞いた時、あまりに壮絶な出来事が続くその人生に、うまくリアクションができませんでした。そしてこの記事をまとめる作業は、これまでのインタビューの中で間違いなく一番、大変でした。

世界中でさまざまな人と出会い、多様な価値観に触れ、あらゆる苦難に向き合ってきた村岡さんが、あえてこの小さな町・小鹿野を選び、新たな挑戦を始めている——その意味を、自分自身の暮らしと重ねながら、改めてじっくり考えさせられました。

特に印象的だったのは、「歌舞伎」や「祭り」に代表される「自分たちのことを自分たちでやっていく」という文化の力。そのポテンシャルは、私がこれまで表面的に感じていた以上に、計り知れないものなのだと改めて感じています。

私は移住してまだ半年あまり。これまでに何度か、祭りの熱量や人の想いにふれる機会がありましたが、これからはもっと「自分ごと」として関わっていきたいと強く思っています。

そして、記事の最後に登場する村岡さんのビジョン。まだその夢がほんの一部しか実現していないとしたら——この町の未来が、どんなふうに変わっていくのか。課題はあっても、やり方次第で小鹿野の未来はきっと明るい。そう思うと、自分の内側からもなぜだか勇気が湧いてくるようでした。

小鹿野町は「何もない」と言われることもあるけれど、実際にここで暮らし、村岡さんのような方に出会うと、「何もない」どころか「自分の手で何かを始められる可能性が無限にある」と感じます。

都会にはない暖かさと、地域の文化に根ざした誇り。そして、自分自身の想いや行動がダイレクトに町に届く感覚。一歩外に出たら、山に囲まれた豊かな大自然。田舎ならではの大変さももちろんありますが、もしあなたが、自分らしい暮らし方や表現を模索しているのなら、小鹿野町という場所でなら、そのきっかけに出会えるかもしれません。

ぜひ、小鹿野町でお会いできるのを楽しみにしています!

執筆・撮影(一部除く) 松田 遼


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