平家の末裔から現代へ、世代を超えて受け継ぐ播磨一党の誇りと「おもてなし」【小鹿野町 鉄砲まつり】

秩父地方のお祭りの1年を締めくくる、小鹿野町の八幡神社例大祭(通称:鉄砲まつり)。発砲される火縄銃のなかを駆け抜ける御神馬、その発砲が奉納行為となる珍しさなどを目当てに、多くの観光客が訪れる人気のお祭りである。

その八幡神を小鹿野に伝えたとされるのが播磨一族で、お祭りの終盤に行われる「川瀬神事」では、神輿を担ぐ役割を持つのは播磨家のみという伝統が今なお残っている。今回はその播磨家から、神事に深くかかわる勇さんと、その母で裏方としてお祭りを支える二三江さんのお二人に、「鉄砲まつり」の歴史や習わし、普段の生活のなかでどのようにお祭りとかかわっているかなど、幅広くお話をうかがった。

鉄砲まつりの特別な役割を担う、播磨一党としての自覚

― 播磨一党としての自覚や、お祭りにおける役割を意識し始めたのはいつ頃ですか?

勇さん: 私が播磨という姓を受け、ここに生まれ育って50年になりますが、自分が播磨一族だと認識し、八幡神社の鉄砲まつりでも「自分たちが特別な役を担っている」と意識し始めたのは中学生ぐらいからですね。私自身も小さい頃に父や近所の播磨さんから話を聞いて、もともと播磨家は平家方の末裔だという認識でいます。兵庫県の南部、今の播磨町の方から落人として流浪し、この地にやってきたそうです。逃げ延びてきた平家方が、信仰していた八幡神を目立たないところに祀って置いた、これが鉄砲祭りで行う「川瀬神事」の場所である八幡淵です。祭りの大名行列で、最後に入る場所ですね。その神様をいつだったか神社に移し、そこから今の鉄砲祭りが形作られていったと理解しています。

だから、昔の人は「播磨の祭りだよなあ」とか「播磨がいないと祭りが成り立たない」なんて言う方もいて、「そうなんだ、ちょっと特別なのかな」って、子供ながらに自分の中で多少なりとも誇りに感じていた部分もありました。

神輿渡御の様子

― ご両親から、家系やお祭りにおける役割についてご説明を受けることはあったのでしょうか?

勇さん: いえいえ、そんな堅い話はなくて。逆に父よりも私の方が、お祭りに対して興味関心があったような気がします。「お前の方が詳しいよな」なんて言われますね。

それでもやはり、代々受け継いでいるわけで、八幡神社の鉄砲祭りでは今でも播磨家しかやらないこと、できないことがあります。それは父にもしっかり教わってきました。改めて面と向かって教わるという感じではなく、生まれ育ちながらだんだん知っていく、備わっていくという自然の流れ的なものですね。

― お子さんにはどのように伝えられましたか?

勇さん: 私も息子には「こうしなくちゃいけない」と言ったことはありません。逆に息子の方から、祭りに参加する気持ちを見せてくれて「じゃあ今年は、一緒に御神輿を担いでみよう」と提案してみたり。「この神輿は播磨一族しか担げない」とか、そういう話をやっぱり普段の生活のなかでも口にすることがあるんです。そういうことから、だんだん私と同じように、播磨としての自覚をし始めているのかなと思います。

12月に入ると「四つ足の肉(牛や豚などの四足歩行の動物)」を食べないとか、昔からの風習があるんですが、祭りが近づくと息子の方から、「今年はお祭りが何日だから、何日まで、肉を食べないようにしなくちゃいけないんだよね」とかって言うぐらい。意識してるんだなあって、感じますね。

祭りの裏側を支える人:嫁として継ぐ「おもてなし」

― 二三江さんは両神(旧両神村)のご出身とお伺いしています。当時は合併前の隣村でしたが、ご結婚される以前、鉄砲祭りの存在はご存知でしたか?

二三江さん: もちろん知っていました。ひと山向こうの両神でも、このお祭りがあるから学校が半日だったような気がします。学校が終わって家に帰ると、両親やおばあちゃんたちと一緒に峠を越えて、歩いてお祭りに来させていただいたという思い出があります。

― まさか嫁いだ先が、そのお祭りを支える中心的な家系だとは、というところだったのでしょうか?

二三江さん: そうですね。お姑さんからも「お祭りは次の嫁が来るまで見られないものと思え」と教わったぐらい、当日は家での準備で大忙しです。お客様へのご挨拶、おもてなしが私の最初のお仕事で、とにかくたくさんの方がお見えになりました。

ですので私は未だに「川瀬神事」という、神社で祭典をして大名行列を作って八幡淵まで行って、そして神社まで帰ってくる一連の流れを、最初から最後まで見たことがないんです。前日や当日に、息子や孫たちが歌舞伎に出演をするのですが、それも幕の合間を少し見るだけ。こんなに近くてもなかなか見られないんです。

― いつ頃から準備を始めるのですか?

二三江さん: この辺りで5軒あるうち、私たちの播磨家では神事の前々日からうどんと蕎麦を打つのですが、その日はほぼ丸一日打ち続けます。私の妹や実家の嫁、あとは主人の兄妹にも手伝ってもらって、前々日、前日、本番の3日間連続で、私の実家側・主人側の両家の家族が総動員します。お祭りは、みんなでこの家を守る行事でもあるんです。

― 事前準備のなかで、なにか気を付けていることはありますか?

二三江さん: 12月に入ってからお祭りの「お立ち神事」が終わるまでは、播磨一族は四つ足のお肉を食べないという習わしがあるので、やっぱり食事の用意には気を使いますね。うちの子たちは、加工品のハムやウインナーも食べません。学校の給食で豚汁が出ると、「豚肉は全部よけたから大丈夫」なんて言うんです。そういうふうに神経を使うようになるんですよね。

お弁当とか、一日三食の献立にも頭を使います。肉を使わなくても、子どもたちにはボリュームのあるものを食べさせてあげたいじゃないですか。だから「カツの代わりに、イカフライとかエビフライにしよう」とか。でも、それが週に1回か2回ならいいけど、毎日イカフライでも嫌でしょうし。なかなか難しいです。

― 「お立ち神事」がある2日目が、おもてなしをする側としても本番なのですか?

二三江さん: そうですね、前日までにうどん・蕎麦、煮しめ、おしんこ、お赤飯、おしるこもできていて、もう完璧に待ち構えているだけの状態にしておきます。「いつ、どなたが来ても、あったかいものをすぐにお出しできるように」と心がけていて、食べるものだけは、十二分に用意していますので、どれだけ人が来てもそうは驚きません。

お祭りと歌舞伎と消防:1人が何役も担う地域活動

― お祭りより前に、ほかの播磨家のみなさんと事前に集まってお話をする機会はありますか?

勇さん: お祭りの前の週の木曜日に播磨一族が集まって、準備を行います。播磨家で特別な集まりといえば、それぐらいです。というのも、鉄砲まつりは播磨家だけのお祭りでは決してなく、このエリアに住むみなさんが氏子ですし、みんなで協力して、それぞれの役割ありきで「鉄砲まつり」になっています。私たち播磨一党は、その一つの使命を果たしているに過ぎません。

とはいえ、上飯田の播磨家はいま現在5世帯のみになってしまいました。「川瀬神事」の神輿を担ぐ役割を持つのは播磨一党なので、倉尾地区に住む播磨さんにも手を貸していただきながら、なんとか回っているという状況です。なるべく昔と同じような形で、この習わしも途絶えさせないように継承していきたいですね。

― 歌舞伎にも出演されると聞きました。播磨家としての役割もあるなかで、両立するのは大変そうです。

勇さん:そうですね。現役の消防団員でもありますから、朝は消防に行って警備して、お祭りでは歌舞伎の準備・出演があって。今日も稽古をしてきたところです。播磨家としても、御神馬が駆け上がるお立ち神事から御神輿までを成立させる必要があるので、歌舞伎についてはそこまでは入り込まないように、配役や出演時間は上手く調整しながらやっています。

歌舞伎に出演する播磨勇さん

― 人口減少が進むなか、移住者など外から来た方が、皆さんが大事にしてきた文化やお祭りにかかわってくれることについては、どのようにお考えですか?

勇さん: 大変いいことだと思います。もう本当に、ウェルカムです。例に漏れず小鹿野町では少子高齢化が進んでいて、この鉄砲まつりのエリアだけでなく、お祭りを運営していくには町全体として人手不足の状況です。みんながそれぞれ若連をやったり、消防をやったり、行事に選ばれたり、何役もやってるんですよ。大変な思いをして取り組んでいる方がいっぱいいるので、移住してきた方や関係人口などの協力者が地域に根付いて、我々と一緒にお祭りを盛り上げてくれるのは、本当に喜ばしいことだと私は思います。

やっぱり小鹿野町を盛り上げていきたいですよね。なんというか、自分で言うのもなんですけど、私は地元が大好きですから。

― やはり小さい頃からお祭り好きとして育ったんですか?

勇さん: その通りです。思い返せば、1年の中で何が一番楽しいかというと、お祭りだったと思います。鉄砲祭りですね。ただ正直なところ、私も大人になって結婚して子どもを持って、お祭りの役の方で参加するようになったら、今度は責任感とそれに比例する大変さを感じるようになりました。だから「楽しいな」というだけではなくなりましたね。

― 二三江さんは、外からの協力者についてどうお考えですか?

二三江さん: この八幡神社のお祭りだけではなく、町内のお祭りに関しても、持続していくことがすごく大変だと思うんです。だからどういう形であれ、ご参加いただいてお祭りが賑やかに執り行われるのは、とてもいいことだと思います。私が嫁いできてもう50年になりますが、そのなかでやっぱり人の出とか、お祭りに関わる人たちが減って、少し寂しくなったような気もします。

お祭り当日に食事の準備をする播磨二三江さん

― ほかに変化を感じる部分はありますか?

二三江さん:  昔は私の父や兄弟たちなども猟銃の免許を持っている人がたくさんいて、その頃はみんな猟銃で参加していたから、バンバカバンバカ撃って、それがものすごい迫力だったんです。だんだん規制が厳しくなってきて、日没以後は撃てなくなって、猟銃から火縄銃に変わったと思ったら、その火縄銃も撃てる回数が決まってしまって。

自宅で接待をしていて直接見に行けない私たちは耳で楽しんでいたところがあるものですから、今はパンパンパンパンとすぐに終わってしまって、「あれ、もう終わっちゃった。馬は上手に石段を駆け上がれたかな」なんて感じてしまいます。仕方がない変化ではありますけど、時代の流れとともにちょっと寂しさもありますね。

― 逆に、変わっていないものはありますか?

二三江さん: 今は便利になったでしょう、色んなことがね。スイッチを押すだけでエアコンがついて部屋が暖かくなるし。それでも昔と同じようにお姑さんが教えてくれたやり方で、自分が育てた小豆で煮豆を作って、採れたこんにゃく芋をすりおろしてこんにゃくを作って、一つ一つみんな手作りで作るんです。便利なものは、お刺身とかそういうものはもちろん買ったりもしますけれども、なるべく自分の手でできることはやるようにしています。

お寿司だって買ってくれりゃわけないのに、うどんだって買ってくれりゃわけないのにって思いますけど、やっぱりみんななかなか手打ちなんて作らないし、喜んで食べてくれるので、その喜ぶ姿がね、「うまいなあ」なんていう一言が嬉しくて、続けていますよね。


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