都会ではできない子育てが、ここにある。小鹿野町で50年、保育と福祉を続けてきた女性の言葉

2024年末、地域おこし協力隊として千葉県から秩父郡小鹿野町に移住してきた松田です。
今回は、6歳と1歳の子どもを育てながら暮らす私が、長年にわたり小鹿野で保育・学童・福祉の現場に立ち続けてこられた高橋喜久子さんにお話を伺います。彼女が歩んできた道には、「子どもたちにとって本当に必要なものとは何か」を問い続ける時間が、静かに、そして力強く流れていました。

子どもたちのことは、全部責任を持って大きくしていきたい

松田: 今日はお時間ありがとうございます。まず、現在取り組まれている主な活動について教えていただけますか?

高橋喜久子さん(以下、喜久子): 小鹿野ひまわり福祉会という社会福祉法人の代表をしています。主には学童クラブと就労福祉施設「ぶんぶん」を運営しています。元は保育園から始まって、学童を経て、福祉施設にまで広がりました。

松田: 保育園が原点だったんですね。どのようなきっかけで立ち上げたんでしょうか?

喜久子: 1969年ごろ、町には町立保育園しかなかったんです。でも高校の定時制に通う女性の先生たちが、子どもを預ける場所がなくて困っていた。それで「無認可でもいいから」と、保育園を始めたんですよ。最初は園舎もないから、若い大工さんに手伝ってもらって、山から木を切って自分たちで作った建物でした。最初は教職員のために始めたんだけど、だんだん子どもが増えてきてね。共働き家庭も今ほど多くなかったから、困ってる人のために何かしなきゃって、そういう思いが根っこにありました。その思いは、今もずっとあります。自分の得にはならないけど、そういう場面を見たら黙ってられない。地域のおじいさんおばあさんや、子育てが終わった人たちも集結して協力してくました。5年経った時に、認可保育園になりました。

松田: 保育の中で特に大切にしていたことは何ですか?

喜久子: 子どもたちのことは、全部責任を持って大きくしていこうって思ってるんです。ただ預かっていればいい、っていうんじゃなくて、生活を共にする。そういう気持ちで接しています。どうしたらこの子たちにとって一番いいのか、最高のことってなんだろうって、私たちもずっと勉強しながら考えてきました。特に5歳まではね、五感を育てる時期。だから『触る』ということを大事にしています。テレビはなるべくつけないで、外に出るようにするんです。そうすると自然の中には、子どもにとっての驚きがたくさんあります。見たことのない花、嗅いだことのない香り、鳥の声…そういうものにふれた時の目の輝きって、本当にすごいんですよね。そうやって、自然と一体になるような感覚を大事にしてあげたいと思ってます。

それから、大人の都合で子どもを制限しないことも大切です。子どもが『これやりたい』って言ったことには、なるべく応えてあげたい。実現できるように、私たちが努力する。そうやって応援するのが、大人の役目なんじゃないかなって思うんです。

松田: そのような考え方は、いろいろなことが便利になった今の時代、特に必要だと個人的には思います。とはいえ、町の中では保育の方針に対して批判もあったのではないでしょうか。

喜久子: ありましたね。例えば、散歩に行って田んぼにザリガニがいれば、捕まえるから泥だらけで帰ってくるんです。それを見て、ひどい言葉で罵られたこともあった。他の園に行っている子どもたちはキレイな服を着てるけど、うちの子は泥だらけだからね。側から見たらそう見えるかもしれません。でも、子どもたちは目を輝かせていたんです。共感する人もいるし、そうでない人もいましたが、泥だらけでも夢中で遊んでいる姿を見れば、「これでいい」と思えました。汚れることを避けるより、五感を使うことを大事にしたかったんです。

あと食も大切にしています。昔は、野菜なんてほとんど無農薬だったんですよね。だから、今でもなるべく地元で、無農薬で育てている甘みのある人参や大根を探すようにしています。そうやって、子どもたちの脳みそに、ちゃんと“本当の味”を刻み込んでおきたい。人参って、本当はこんなにおいしいんだよ、って。地域の人たちからいろんな情報を集めて、子どもたちにとって“得になるもの”を届けることも園長の仕事のうちです。そのために、農業をしている人ともたくさん話をします。例えば、年配のおじいさんおばあさんが暮らしている地域に行くと、落ち葉を集めて肥料をつくって、それを畑にまくような自然農法をしている人もいるんです。そういう畑で育った大根や人参を、直接交渉して仕入れるんです。自分の目で確かめてね。

給食にも、おやつにもとにかく野菜をたっぷり使います。お肉の3倍くらいの量の野菜を入れるのが、うちの方針。もう、どっさりって感じですよ。午後のおやつにも、ごぼうが出ます。きんぴらごぼう。しかも、太くて大きいのがドーンと。野菜の切り方も細かくしすぎず、あえて大きめにしています。食べるときも、自分で手を伸ばして取ってもいい。手づかみでもOK。先生はあくまで補助で、必要なときだけそっと手伝う程度。欲しいものは自分で取りに行きなさい、って。赤ちゃんでも、「がんばれー!」って応援します。

こうした考え方は、昔読んだ『エミール※』から得たものでもあります。子どもが自分でやろうとする力を信じて、なるべく手を出さずに見守る。だから、時間がかかりますよ。親では大変だと思います。そういう保育を大事にしてきました。
※エミール 18世紀のフランスの思想家・ジャン=ジャック・ルソーの“教育の原点”とも言われる、子どもの内なる力を信じる思想書。

穏やかさと大自然がある、小鹿野町での子育て

松田: 小鹿野だからよかった、と思えることはありますか?

喜久子: 小鹿野って、電車が通っていればもっと発展してたって話もあるけど、私は、そうじゃないところがいいと思ってるんです。不便だけど、その分、“モノの静けさ”があるというか……、そんな気がするんです。確かに、華やかなものや便利なものはないのかもしれない。でも、平穏な暮らしがここにはある。おじいさんやおばあさんと一緒に住んでいる家庭も多くてね。最近は“老害”なんて言葉もあるけど、私は、そういう家庭で育った子は穏やかだと思ってます。何かあっても、誰かがちゃんと受け止めてくれる環境がある。もちろん厳しいおじいさんおばあさんもいるけれど、大体は甘い(笑)。その“甘さ”に救われてる部分って、きっとあるんですよ。

それに、子どもを自然の中で遊ばせるって、やっぱりいいんです。手でつかんで、体で感じる。そうやって得た感覚って、ちゃんと大人になっても残るんです。味だってそう。舌で感じたものは、脳の中にしっかり残る。たとえこの子が東京に出ていっても、小鹿野で見たもの、感じたもの、吸った空気の味、それはきっとこの子の中に残ってる。確かめようはないけれど、私はそう信じてるんです。いつかどこかで、それが生きてくる。もしその子が大きくなって人生のどこかで立ち止まったとき、「帰るなら、小鹿野だな」と思い出してもらえるんじゃないかってね。私は、そう信じてこれまでやってきました。そう思えたら、頑張れるんです。

松田: 本当にそうですね。きっと子どもたちの身体のどこかに刻まれていくのかもしれません。
卒園児たちが遊びにくることはありますか?

喜久子: ええ、来てくれますよ。ひまわり保育園は令和7年3月末で閉園しましたが、そのときに卒園児全員にお知らせを出して、「遊びに来ませんか?」と声をかけました。すると、何百人もの卒園児たちが来てくれて、すごく長く滞在してくれました。その日は、かつて園で取り組んでいたソーラン節も流しました。合併前で町全体が元気をなくしていた頃、子どもたちの力で元気を届けようと始めた取り組みです。園児みんなで踊っていたんですよ。昔使っていたはっぴも出して、「自由に持って帰っていいよ」としておいたら、懐かしそうに手に取る子もいました。音楽が流れると自然と踊り出す子もいて、まるであの頃に戻ったような光景でした。保育園の閉園後は、学区の統合にあわせて、この場所は「新原学童」として新たに生まれ変わりました。

たった一人の声から、すべてが始まった

松田: 「ぶんぶん」では障害のある方がお菓子作りなどのお仕事をされています。設立の経緯について教えてください。

喜久子: 「ぶんぶん」をつくるきっかけになったのは、車椅子の子どもが「保育園に入れてほしい」って来たことだったんです。
最初はね、お父さんがずっと付き添ってくれて。みんなが砂場で遊ぶと、その子も這っていって、泥まみれになって遊んでた。
そうやって一緒に過ごしたんですが、卒園後は養護学校に進むことになったんだけど、当時、秩父には車椅子の子が通える学校がなかったから、熊谷の寄宿に入れることになったんですね。
でもね、夜中に泣き続けちゃったりして、大変だったみたい。小学校・中学校と通って、当時は普通の高校には進めなかった。
そうなると、卒業してからの行き先がないんです。この子は、どこへ行けばいいんだろうって。

松田: そこから形にしていくエネルギーが本当にすごいと思います。

喜久子: それがすべてのはじまりでした。行き場がないなら作ろうということになって。7人か8人、同じように行き場のない子たちを集めました。秩父郡内にはそういう場所がなかったから、先生に相談して。そしたらね、「障害のある人には、形が変わる仕事が合ってる」って教えてくれたんです。たとえば、かりんとうとか、うどんとか。手でこねたり、感触がある作業ですね。そういうのを作って、売るようにしたらいいんじゃないかということで始めました。今は、クッキーも作ってます。学童のおやつもね。今は2人の利用者さんと、指導員3人、5人でやってます。

これからの小鹿野町に必要なのは、“新しい発想”

松田: これから、小鹿野町で子育てをしていく人、Uターンで小鹿野町に戻ってくる人にメッセージをお願いします。

喜久子: 私にしてみるとね、これからは“新しい発想”が欲しいんです。今までいろんなことをやってきたけど、それは私に特別な力があったからじゃなくて、子どもが生まれて、目の前に困っている人がいたから。どうにかしなきゃって思って、やってきただけなんです。精一杯やってきたけれど、これからは、自分だけでは思いつかないこともたくさんあると思う。
だからこそ、外の世界を見てきた人、小鹿野の外に住んでいた人たちに、この町を見てもらって、「何ができるか」を一緒に考えてもらえたら嬉しいんです。私はもう、小鹿野にどっぷり浸かってるから、いいところも悪いところもよく知ってる。でも、だからこそ、まったく新しい視点が欲しいなって、心から思っています。

松田: ありがとうございます!それであれば、私も何かお手伝いができるかもしれません。本日は素晴らしいお話を聞かせていただき、ありがとうございました。

編集後記(松田より)

取材のあと、私が個人的に抱えていた学校への悩みをぽつりとこぼすと、とても親身になって具体的な提案をしてくださった喜久子さん。その前向きさと的確なアドバイスに心から勇気をもらえました。彼女の深い愛情は、言葉からも、行動からも、自然とにじみ出ていて、話しているだけで元気をもらえます。

子どもを信じて、待って、支える。そうありたいと願いながらも、忙しい毎日の中で、私自身はどれだけできているだろうか。優先順位は間違っていないか——そう、自分に問い直す時間になりました。ひとりの親として、またこの町で暮らす大人として、そのまっすぐな情熱に、胸を打たれました。

写真・文章 松田遼
小鹿野ひまわり福祉会

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